パレスチナ関連文書ライブラリー

戦争

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京都の岡真理です。ガザ・アズハル大学の21歳になる学生、ルバ・サリービーのエッセイ「戦争」をご紹介します。ルバは、ガザ地区北部にあるジャバリヤ難民キャンプに住んでいます。

英語で思いの丈を綴る彼女は、英文科の学生でしょうか。アブデルワーヘド教授の学生さんの一人でしょうか…。3月、ガザを訪れた際、英文科とアラブ文学科の授業で話をさせていただきました。話のあと、学生さんたちが持っているスマホで、何回も一緒に記念撮影をしました。あの、賑やかで可愛い女子学生たちの一人が彼女だったのでしょうか…。

なお、英語サイトには最初に、関連写真がありますので、よければ、以下のサイトもご覧になってください。

原文:War

戦争

ルバ・サリービー
Mondoweiss/2014年8月6日

写真:束の間の停戦となり、破壊された自宅を初めて目にしたパレスチナ人の少年ガザ北部シュジャイヤ地区で(撮影:アリソン・ドジャー)

本当に、話を聞くのと、自分がその出来事の一部になるのとでは、ぜんぜん違う。戦争のあいだ、私たちは、死にさらされたり、死を逃れたりした人たちのたくさんの話を聞いた。なかでもシュジャイヤの虐殺はその最大の例。私たちは死ぬまいと走っている人々の姿を目にした。あるいは、死を逃れることができなかった人たちの姿も。

人がこんな恐怖を実際に生きているなんて、私にはほとんど信じられなかった。ある意味、ガザの誰もが、自分は攻撃目標ではない、と思っている。あるいは、そう思い込もうとしている。私たちは、なぜ自分たちだけは死なずに絶対にこれを生き延びるのか、その思いつく理由を100万くらい数え上げようとする。

私たちがしがみついて放さない、この、生き残るわずかなチャンスは、どの人の中にも存在する。イスラエルの戦車隊が私の家からどれだけ離れているか、私はひそかに計測を始める。私たちの地区の地図を頭に思い描いて、私と、いちばん遠い戦車のあいだにあるすべての通りを思い出す。迫撃砲がどれくらの距離まで届くものか、グーグルで調べてもみた。皮肉なことに、その翌日、迫撃砲が我が家の隣の家を直撃した。だから、迫撃砲の飛距離の答えは、「我が家に届くに十分なくらい」ということになる。

また、時には生き残る理由を探すのを諦めて、いやなシナリオばかり想像したこともある。中でも最悪なのは死ぬこと。でも、死ぬのは痛いことじゃない、ほんの一瞬ですべてが終わっているのだから、と自分を慰めようとする。私の頭はいつも、そんなことでいっぱい。

ほぼ30日間ずっと、「分からない」という状態のなかで生きている。毎日、午後8時、夜の闇が下りはじめると、今晩はいったいどんな夜になるのだろうと、私たちは考え始める。空を見上げて、戦闘機がいくつ飛んでいるか推し量る。その音に注意深く耳を澄まし、どれくらい近いか推し量る。戦闘機の数が多ければ多いほど、その音が大きければ大きいほど、その晩はより恐ろしいものになる。イスラエルのF16が攻撃目標を叩くため、ものすごい低空を飛ぶとき、心臓がバクバクする。私たちは、ロケットから発射された光を目で追う。そして神に祈る、私たちの家に当たりませんように、と。時々、遠くのロケットの音がどんどん近づいてくるのが聞こえる。私たちは目を閉じる。爆発音が聞こえるまで。爆発音が聞こえたということは、私たちはまだ生きているということ。

私たちは、とっても過酷ないくつもの夜を過ごした。どれも一生、忘れられない夜。ひとつは、イードの2日目。4つの家族が、激しく砲撃されている地区にある自宅を逃れて、私たちの家に避難した。一部屋に50人近くが集まって、私たちは目をさましたまま、怯えていた。その晩、私たちは、あらゆる種類の砲撃を聞くことができた。私たちはみな、トラウマに陥り、一言も口がきけなかった。私たちが待ち望んだものはただ一つ、太陽の光。というのも、日中だと砲撃もなぜか、それほど怖くはないから。夜の8時から朝5時までのあいだは、一秒一秒が何十年にも感じる。

時間は、このような日々では、決定的に重要なもの。ときどき、時間だけがすべて、ということもある。私の弟は、この戦争はいつ終わるのと訊ねてばかりいる。父に、今何時と訊ねることもある。うちの地区にあるある家に警告用のミサイルが撃ち込まれた。攻撃目標になっている家が完全に破壊される前に、その地区の者たちに避難せよ、という命令だ。2人の年輩の男性と一人の女性が生き延びることが出来なかった。なぜならその3分後に家が爆撃されたから。二人の老人は家から離れようと、できるだけ速く歩こうとしていたのに。3分では足りなかった。シュジャイヤの虐殺のあと、赤十字が負傷者を搬送できるよう2時間の停戦になったけれど、2時間では足りなかった。瓦礫の下から彼ら全員を引っ張り出すなんてできない。そして時間は、いくつかの魂を救うには足りなかった。この29日間の戦争が、私には29年にも思える。

8月4日、午前3時30分という時間を私は忘れられない。姉と私は自宅の2階で同じベッドで眠っていた。戦争が始まったときから、私たちは一緒に眠るようになった。父、母、妹、弟は1階で寝ている。 砲撃があったのを覚えている。私は、注意を払うまいと思い、眠ろうした。でも、長くは続かなかった。突然、自分たちの家の中だと思うくらいすぐ近くで空爆の音がして、私たちは、目を覚ました。続いて、何人かの男たちが助けを求めて泣き叫ぶ声。100万もの考えが脳裏にあふれる。どうしたらいいのか分からなかった。私たちはその空襲が何だったのか見るために、バルコニーに駆けつけたが、私たちに聞こえたのは、1人の男性が通りを走りながら、苦しみに泣き叫ぶ声だった。二人の隣人も何が起こっているのか見るために外に出て来た。母と父は急いで玄関に行った。

私たちがそこに立っているとその数秒後、2発目の爆弾が私たちの目の前を通って、隣の家の正面に落ちた。そのとき私が思ったのは、玄関に立っている父と母のことだった。叫んでいた者たち全員が静かになった。何の音もしなかった。姉と私は「お父さん」と一斉に叫んだ。どうやって階下に下りたのか分からない。でも、父と母がまだ生きているのを目にすると、私たちは床に倒れ込んでしまった。息をすることも話すこともできなくて。私たちはただ、ショックを受けていた。空襲は、通りで泣いていた男性を狙ったものだった。

男性は亡くなった。隣人の3人が負傷し、通り一面に血が流れていた。自分の目の前で誰かが死ぬのを目にするのは初めてだった。ほんの1分前には助けを求めて泣き叫んでいたのに。

両親が怪我して、あるいは死んで、床に横たわっているのを目にしていた可能性だってあった。そう考えただけで、息ができなくなる。一瞬のあいだ、何もかもが夢のように思えてくる。誰かを亡くすという考えに、私は泣いていた。でも、それから、この殉難者の母親は、息子の身に起きたのかも分からないのだという考えに、私は打たれた。亡くなったのが私の家族ではないということは、誰かほかの人が愛する誰かを亡くしたということ。目から涙が溢れた。彼のお母さんが気の毒で。

[翻訳:岡 真理]

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