パレスチナ関連文書ライブラリー

家を追われた何千人ものパレスチナ人、ガザ市周辺/2014年8月7日

■拡散歓迎■

京都大学の岡真理です。

ガザでは40万人以上(ガザ総人口の4分の1弱)が家を追われ、うち24万人が国連施設で避難生活を送っています。では、残りの人々は…?

部屋を借りることができたり、親戚や知人宅に身を寄せることのできる人はまだ、恵まれています。ガザ市の周辺部は、部屋を借りることも、知人宅に身を寄せることもできない人々が、路上で生活を余儀なくされています。8月の炎天下で、食べる物も水もなく。

以下、アリソン・ドジャーの「家を追われた何千人ものパレスチナ人、ガザ市周辺で避難生活」をご紹介します。

原文:Mondoweiss Thousands of displaced Palestinians take shelter on the fringes of Gaza City / Allison Deger

家を追われた何千人ものパレスチナ人、ガザ市周辺で避難生活

Allison Deger/アリソン・ドジャー
Mondoweiss/2014年8月5日

ガザ市では、何千人ものパレスチナ人が国連施設の外で避難生活を送っている。民間の保護区域が空爆の標的とされるのを恐れてだ。人々は部屋を借りたり、あるいは店舗の裏や、半分倒れかけた建物や路上で生活している。もし、これらの人々が現地NGOや国際NGOと接触をもったら、彼らは避難民としてカウントされるだろう。だが、今や、爆破された住宅が破壊的な深淵のような姿を呈している北部の諸地区から来た者たちの多くが、避難民として登録されていない。彼らは、ガザ市の端で寝起きしている。

エル=アルガンさんの家族は、封鎖されたガザ全土に55万人いる家を追われた避難民の仲間入りをした。一家は2週間前、シュジャイヤ地区に近いゼイトゥーン地区にある自宅を逃げ出した。ゼイトゥーンは北部の町で、今や、無人の、ポスト黙示録的な、爆撃された建物が並ぶ荒廃した土地に成り果て、遺体が依然、瓦礫の下に残されている。「8年前に自宅を新築したんです」フセイン・ムハンマド・アリー・エル=アルガンさん(50歳)は、かつての我が家について語る。

「戦車が発砲し始めた時です、もうここには住めないと分かりました」、歩道の脇のプラスチックの椅子に腰かけてエル=アルガンさんは言う。「家族みんな一緒に家を離れました」。大人たちはそれぞれ、幼い子どもの一人を抱えながら、家を後にしたという。15歳の娘でさえ幼い弟を抱えていた。家族は当て所なく、海に向かって歩いた。砲撃から身を隠す場所を探しながら。「とても困難でした。だが、私たちは生きなければなりません。生き延びなければなりません。」

エル=アルガン一家は、建設途中の建物の、3階建てのコンクリートの骨格の内部で、ゼナードさんの一家とともに閉じこもっている。ともに、28日目を迎えたイスラエルの「プロテクティヴ・エッジ」作戦を切り抜けることを願いながら。彼らの居住スペースは、わずか250平米だ。 同じ建設現場に居住するゼナード家の10人家族の大人3人は、知的障害を負っている。シリーン・ゼナードさん(33歳)は、コンクリートブロックで間に合わせに作られた階段に座り、涙を流して泣いていた。前夜の出来事のトラウマからまだ回復していなかったのだ。シリーンさんとアシュラフ・ゼナードさん(37歳)とアスラ・ゼナードさん(18歳)の3人は、その前の晩、近くの建物を迫撃砲が粉砕したとき、ガザ市の暗い通りに飛び出したのだとエル=アルガンさんが教えてくれた。家族の者たちが3人を追いかけた。イスラエルのF16や無人機に果敢に身をさらして。危険から愛する者を守るために。不幸にも家族の日課になってしまったことだ。

「イスラエルは、戦車の通り道を作るため、ゼナードさん一家の家を破壊したんです」、エル=アルガンさんは言う。エル=アルガンさんは今や、砲撃を待つこと、そして束の間の停戦のあいだに地元の店に駆けつけ、1ガロン用の黄色いプラスチック・タンクをいっぱいにすることに明け暮れている。隣の家の自家発電機を使わせてもらって、エル=アルガンさんはシェルターに1日4時間、電気を供給している。彼はその電気でラジオを聴く。今や彼の大切な情報源だ。

7月25日、一家と話をしたとき、彼らは何日も飲まず食わずだった。ゼナードさん一家は、シュジャイヤの自宅がイスラエルの砲火で破壊されたのを知っていたが、エル=アルガンさん一家は、自宅がどうなったか確認しに、自分たちの地区に戻ることができずにいた。危険だからだ。道のりは長く、徒歩で1時間半かかる。

ガザ市は、戦争に引き裂かれた地区を東へ、北へ逃げた者たちの、実質的な難民キャンプとして機能している。家を追われたパレスチナ人の多くと同様、エル=アルガンさん一家は、国連のシェルターには移らないことにした。UNRWA[国連パレスチナ難民救済事業機関]は100以上のシェルターを運営しているが、シェルターに切り替えられた学校の教室は、一部屋に80人が生活している。皮膚発疹や疥癬などの病気も広がり始めているので、エル=アルガンさん一家は、この建設現場にいる方を選んだ。だが、壁がないので、コンクリートブロックや布で開口部を塞いでいる。「プライヴァシーのような、もっともシンプルなものですよ、入浴する時のプライヴァシーとか」とエル=アルガンさんの義理の弟、アハマド・エル=アルガンさん(38歳)は言う。指定されたシェルターの外で居住している彼が不安なようすでやって来た。「ここだって、安全とは言えない」とアハマド・エル=アルガンさんは言う。前の晩、彼らのシェルターの後ろの建物が複数のミサイルで攻撃されたのだと説明してくれた。爆発は、彼らが寝室として使っている建物の一部に被害を与えた。

エル=アルガンさんのシェルターから歩いてすぐのところに、緑が豊かに茂る広場がある。ガザの無名戦士のための公園だ。戦時でなければ、その庭は子どもたちがジャングルジムで遊ぶ遊び場だ。だが、4週間ほど前にイスラエルの地上侵攻が始まって以来、公園は、シェルターにもう居場所を見つけることのできない、あるいは、ほかに部屋を借りることのできない、あるいは、迎えてくれる家族のない難民たちのためのスラムになった。

隅の木陰でラダー・ザヘレスさん(40歳)は、埃に覆われた公園に座っていた。彼女の13人の子どもたち、姉妹たち、姉妹の子どもたちと一緒に。全部で30人の子どもたちだ。彼女の末っ子は3歳。ザヘレスさんの隣で、妹のナイーマ・ザヘレスさんが9か月の娘を抱いていた。

「こんなふうにここで生きているより、自宅の近くで死んだ方がいい」、[救いを求めるように]両手を天に伸ばしながら、ザヘレスさんは言う。「お金もないし。何もないんです。学校や病院から人がいなくなったら、彼らが私たちに食糧を持ってきてくれるでしょう」

ザヘレスさん一家──やはりシュジャイヤ地区の出身だ──は、2週間前に引き裂かれた。今やガザでは、家族が分かれているのが当たり前になった。空爆されたとき、家族全員が殺されないように、ほかの者たちは別のところに避難するのだ。「シファー病院にいる者も、学校にいる者もいます。私たちは公園にいます。」ザヘレスさんは続ける、「なんでこんなことが私たちの身に起こるの。私たちは自分の家で暮らしていたのよ。プライヴァシーが欲しい。」

建設現場でのエル=アルガンさんの日々が殺伐としているとしたら、ザヘレスさんの日々は地獄のようだ。ガザは暑い。夏はエルサレムよりはるかに暑い。食べる物も水もなく戸外に長時間、座っていたら、飢餓が心配だ。女性ばかりの家族は子供の着替えもなければ、寝るときに敷くマットすらない。「もう泣き叫びたいです。誰かが来て私の傍らで私を守ってくれるように」ザヘレスさんはすすり泣いた。

[翻訳:岡 真理]

このページは パレスチナ情報センター が管理しています。