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パレスチナ情報センター

2006.02.11

映画『ミュンヘン』雑感

Posted by :早尾貴紀

(ネタバレ注意:まだ長く上映されていると思いますので、これから観られる方で、前もって感想や批評を読まれたくない方は、観たあとで読んでください。)

 話題のスピルバーグ最新作『ミュンヘン』を観てきました。
 以下はその雑感です。イスラエルやパレスチナでどういう受け止め方をされているかは、けっこうたくさんの批評文が出されていますので、あとでまた別にご紹介したいと思います。今回は、観てきて率直に気になったことを忘れないうちに記しておきます。

 まず全体の印象として、

1、基本的には「パレスチナ側」の視点が稀薄で、一方的な語りであることは否めない。

2、しかし、主人公がイスラエルを離れ、モサドにも協力を拒否するなど、批判的視点を読み取ることはできなくもない。

ということが言えると思います。

「報復」という構図の崩壊

 前者については、まずそもそも根本的なこの映画の構図――そしてその原作となるジョージ・ジョナスによる「ノンフィクション小説」(原題『Vengeance=報復/復讐』、日本語訳『標的は11人―モサド暗殺チームの記録』新潮文庫、1986年)の構図――である、「報復措置としての暗殺作戦」そのものについて、大きな疑問符があると言えます。一つには、暗殺の標的とされたパレスチナ人たちをはじめとするアラブ人ら11人(この「11」という数字は言うまでもなくミュンヘン事件の犠牲となったイスラエル人の数と意図的に揃えてあるでしょう)のほとんどが、そもそもミュンヘン事件と関わりがありません。
 第二に、P-navi info の ミュンヘン事件の真相 で暴露記事が紹介されているように、ミュンヘン事件のイスラエル人人質の殺害は、パレスチナ人の実行犯によるものではなく実は西ドイツの特殊部隊の狙撃兵がやったという、 元イスラエル政府報道官の証言 が出ています。しかも、記事によれば、人質もろともパレスチナ人の誘拐犯を狙撃することはイスラエル政府の合意のもとに行なわれていたわけです。これがもし真実だとしたら、「ミュンヘン事件」をたんなる都合のよい口実にした、一方的な暗殺作戦であることになります。

 上記二点の理由から、映画の構図である「ミュンヘン事件への報復作戦」というのはそもそも成り立たない話であり、そのことにスピルバーグが意識的であるにせよ無意識的であるにせよ、まず根本からこの映画は致命的とも言える欠落ないし偏向の上に成り立っているように思われます。しかも、原作小説以上にミュンヘン事件そのものを克明に「再現」し、その残虐性を際立たせ、冒頭や途中の重要な場面でその回想シーンを入れている以上、この根底が成り立たないというのは、重大な問題であると言わざるをえません。
 加えて、映画でも触れられているように、直情的「報復」反応ならすでに事件直後にイスラエル軍が難民キャンプを空爆をして無差別殺戮をしていたわけなので、その意味でもすでにして「報復」というリクツは成り立っていません。しかし、それでもなお暗殺作戦に出なければならない理由を述べるゴルダ・メイア首相や担当上司がはからずも明らかにしたことがあります。彼らは、「メディアや世間が注目し、テロリストどもに脅威を与えなければならない。難民キャンプの空爆は注目されない。暗殺をしてメディアに報道されることが大事だ。」というようなことを言います。そこにこそ、この作戦の真の目的があるのと同時に、しかし主人公が作戦の意義に疑問を持ち、自分たちのやっていることがテロと変わりがないのではないかと悩む原因があります。

暴力は独占・コントロールできない

 ここから最初に挙げた第二点目の問題に移ります。確かに、主人公ら暗殺チームは自分たちの任務に疑問を持ち始め、確かに、自らの任務が結局はテロと変わらないのではないか、というところまで悩むわけです。とくに主人公はイスラエルを離れることにし、またモサドへの協力も拒否します。こういったところに、イスラエル批判の視点を読み取ることはできそうな気もします。
 映画でも小説でも強調点がそれぞれにあるのですが、直接の標的以外の者が巻き込まれたり、あるいはいきさつ上、始末せざるをえなかったりするときに、主人公らは悩みます。それはできない/すべきでなかった、と。それでは自分たちはテロリストと違いがなくなる、と。また、これは映画であえて強調されていたように思われますが、指令を出す上司に対して、「本当に標的がテロに関わっているのか。逮捕をして裁判にかければいいではないか」とつめよるシーンまであります。正論です。
 さらに主人公は、「別のテロの抑止のためなんだ」と説得するのに対しても、次第に、「一人のテロリストを始末しても、別のテロリストが代わりをするだけだ」と、しかも往々にして、さらに凶暴な者が台頭してくるため、暗殺がかえって暴力のエスカレートを生み出すという認識に至り、自分の任務に疑問を持つのです。(このあたりは小説のほうに色濃く出ていたかも。)
 また、暗殺チームのメンバーらとくに主人公が、自分らが行使してきた暴力がそのまま自分にはねかえってくることに異常に怯え、自分も同じ手法で暗殺されるのではないかと憔悴していく様子は、小説ではそれほど克明に描かれているわけではありませんでしたが、このあたりは、スピルバーグがあえて、暴力が反射し、自らに返ってくること、そして自分たちが実は「テロリスト」らと変わりがないことを思い知る、そういうことを描いているように思われました。暴力が独占的・一方的に行使されたり正当化されたりするということがないということは、暴力を語るときに大切な視点ではあります。

反転の構図

 反転の構図は次の場面にも見られます。スピルバーグは、原作にない(あるいは 抄訳の新潮文庫にはない)場面を入れており、標的とされたパレスチナ人や、あるいはその周囲にいたパレスチナ人の素顔なり心情・信念をわずかですが映します(おそらくこの「わずか」さえも受け入れられず、イスラエル人の多くから批難を浴びているのでしょう)。標的とされたパレスチナ人らが、ひじょうに気さくだったり理知的だったりしますし、また、一人のパレスチナ人の若者に、国家樹立への固い意志を語らせ、「国家を持てないことの悲しみがお前にわかるか」とまで言わせています(このときこの若者は話している相手がモサドの人間ではなくたんにヨーロッパ人と思っている)。この台詞は、明らかにかつての「離散のユダヤ人」についてあてはまることであり、それを観衆がイメージの中で結びつけることをスピルバーグは意図していたはずです。
 その反転の構図からすれば、モサドの暗殺チーム側にも家族があり、良心があり、葛藤があるように、実はパレスチナ人の「テロリスト」の側にも家族があり、良心があり、葛藤があるはずなんだ、という言えると思うのですが、はたしてそこまで監督に意図はあったかどうか。確証はないですが、もしかするとあったかもしれません。
 そういう意味では「バランスがとれている」と言えるかもしれませんし、「イスラエル批判になっている」とも言えるかもしれません。
 しかし、それだと結局は「どっちもどっち。暴力はよくない」という程度の相対主義的平和主義にしかならないような気がしますし、イスラエルの占領の問題にまでは決して目はいかないでしょう。主人公がイスラエルを去ったのも、反シオニストになったわけではなく(小説では愛国心をむしろ隠していません)、たんにモサドに協力したくないというのが主目的であるようですし。

なお残る自己像の正当化と他者表象の問題

 また、以下のような問題も指摘できます。直接標的の者以外の人を一人でも巻き込むことや、あるいは標的とされた者が本当に「テロ」の黒幕であると言えるのかなどについて、主人公らがひじょうに繊細に苦悩をするところをスピルバーグは強調するため、その効果としてはやはり、「彼らは人間的で理性的なんだ」という印象を与えますし、また、「イスラエル/モサドの用いる暴力は限定的でクリーンである」という印象を与えます。対比的に、パレスチナの「テロリスト」はやはり無差別でダーティな暴力を用いている、そこは違いである、というメッセージも含むでしょう。
 また、アメリカ映画であることの技術的な限界(アメリカ人を観客として想定していることや役者の問題など)もあるのかもしれませんが、暗殺チームは、あるいはモサドの上司やイスラエル政府筋の人間らは、組織内部においてさえも、映画の中では英語を使っています。ヘブライ語はごく一部のニュース映像にあるだけです。これでは、アメリカにおいてはもちろん、日本でも英語に少しはなじみのある人たちにとっては、イスラエル人たちは「言葉が通じる相手」、「自分たちと同じ側の人間」である、という印象を無意識のうちに与えるでしょう。それに対して、パレスチナ人らは必ずアラビア語を話しており、しかもその多くに字幕がついていないのです。対比的に、やはりパレスチナ人は「何を考えているのか分からない、怪しい/怖い存在」というふうに映るでしょう。
 そうなると、結局は、理性と良心を持っている「われわれ」と、不気味な「かれら」という他者表象の問題はそのまま残ってしまっている、というようにも思います。こんな単純な問題にスピルバーグが自覚的でなかったとはとても思えません。とすれば、あえてこのような手法を使ったのかもしれませんが、それならなおいっそうたちが悪いと言えるかもしれません。

さいごに

 ということで、この映画は、イスラエル人が観てもパレスチナ人が観ても、どちらも不満なのは必然的で、どちからも批難をされてしまう映画なんだと思います。それと同時に心配なのは、この映画が、あくまで「史実に触発を受けてつくった物語」だとスピルバーグも言っているにもかかわらず、日本の観衆もアメリカの観衆も含めて多くが、ミュンヘン事件そのものからその後の「報復」まですべて「事実」であるかのように受け取ってしまいかねないことです。映画のもつ「リアルさ」の恐ろしさが、この映画では露骨に出ているように思います。

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