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2009.05.30

『シリアの花嫁』の見方/補足あり

Posted by :早尾貴紀

 2月からロードショーの始まった映画 『シリアの花嫁』 は、もうかなりの地域で上映されたようだ。好評で、6月、7月もまだまだ各地を回るらしい。

 僕がこの映画を最初に見たのは、2004年の夏。当時滞在していたイスラエルでだ。公開してすぐのイスラエルでも、この映画は評判が高く、先行上映の映画祭やプレミアム上映では、チケットがすぐに完売し入手するのも困難だった。
 僕がこの映画に関心をもったきっかけは、何よりもドルーズの国籍や政治的ポジションの困難さを描いていたからであった。02-04年にかけて、僕はドルーズのフラットメイトとともにエルサレムに住んでいた。彼といっしょに、別のドルーズをテーマにした映画も観ていた( 『凧』というタイトルの映画 で、こちらはイスラエルとレバノンとの国境を舞台にしていた)。
 ドルーズとイスラエル/パレスチナ問題については、すでにいろいろと書いてきたので、これ以上は繰り返さない。その文章のリンクを ここにまとめてある

 最近、僕がたいへんに尊敬してやまない二人の研究者の先達が、それぞれに『シリアの花嫁』に言及しているのを耳にした。
 一人は徳永恂氏で、彼はアドルノやヴェーバーなどドイツ語圏の思想・社会科学の研究で知られ、極めて重要な功績を残している。その徳永氏が、ある研究会の場で、パレスチナを扱っている日本の一部のジャーナリストについて、あまりに単純にイスラエル断罪をしており反ユダヤ主義的傾向がある、と指摘した。たしかにそう言わざるを得ない面がある。
 そのとき徳永氏は、複雑なイスラエル問題を知るうえで、『シリアの花嫁』はたいへんにいい映画なので、みなさんもぜひ観るべきだと言われた。
 たしかにこの映画は、67年からイスラエル占領下におかれたシリア領ドルーズ・コミュニティの分断、無国籍状態について、そして世代を経たことによって、古い家父長制度をめぐる若い夫婦間のジェンダー・ギャップ、事実上イスラエル社会内部で進学していく若い世代(それを受け入れられない親世代とのギャップ)などについて、あるいはアラビア語とヘブライ語との混淆状況、ロシア人との結婚などの多文化的状況について、ひじょうによく描いている。
 その意味で、パレスチナに関心をもつ人なら一度観ていていい映画だと思うし、徳永氏が推薦したのも頷ける。

 他方、この映画を批判したのは、日本におけるパレスチナ研究の第一人者とも言える板垣雄三氏だ。いや、映画そのものに対する批判とは言えないかもしれない。むしろこうしたヒューマニスティックな映画が消費されることで、イスラエルによるパレスチナ占領という政治問題が、観衆のなかで帳消しにされかねない構造について危惧していると言ったほうが正確だろう。
 映画はとりわけ容易にヒューマン・ドラマに訴えがちだ。これはドキュメンタリー作品についても同じだ。これと類似の問題を、僕はこれまでたびたび目にしてきた。
 やはりエルサレム滞在中に観た『コラボレーター』という映画。イスラエル軍が利用してきた占領地のパレスチナ人の協力者が、占領地でバレて任務ができなくなった後に、イスラエル内のスラムで不安定な生活をひっそりと送っている。その日常を撮った映画だった。
 このとき監督挨拶で、若いイスラエルのユダヤ人監督は、ヒューマニズムの立場からこの映画を制作した、と語っていた。それを「良心的」イスラエル人たちが観て感動して帰っていった。たしかに気持ちの悪い構図だ。この問題については、すでにスタッフ・ノートに書いた( 「映画『コラボレーター』の描いたこと」 )。
 あるいは、山形国際ドキュメンタリー映画祭でも上映された、 『ガーデン』 という映画。この映画は、男性同性愛者ということもあり、故郷に居られなくなったパレスチナ人が、やはりテルアヴィヴのスラム街で男娼をしながら生活しているところを撮ったものだ。本当によく対象に迫っているし、イスラエル/パレスチナの複雑さをよく描いている。
 しかし、これを撮った若いイスラエルのユダヤ人監督も、山形に来て会場質疑で政治的立場を問われたときに、「政治問題ではなく自分たちはヒューマニズムの問題だと思っている」と応えた。映画は素晴らしかったが、この質疑を聞いてガッカリした。

 『シリアの花嫁』に話を戻そう。
 この映画がよくできていることは確かだし、多くのことを効果的に訴えていると思う。その意味では、一人でも多くの人に観てもらいたい。そのことで、「イスラエル対パレスチナ」とか「ユダヤ対アラブ」といった単純な図式での理解(これは徳永氏の指摘するように「反ユダヤ主義」に通じる)が、少しでも是正されればと思う。
 しかし同時に、「ヒューマニズム」の次元でこの映画を消費するだけに留まるならば、シオニズム自体に対する批判には至らないだろう。そうであるなら、シオニズム左派の文学者(アモス・オズやダヴィッド・グロスマン)の作品を日本の社会は80年代から消費してきたわけで、まだそこから一歩も前進していない、ということになるだろう。
 『シリアの花嫁』のリクリス監督は、来日インタヴューで、「リベラルさと寛容が必要だ」と訴えていた。これがシオニズム左派の限界でもある。


 少し補足します。
 板垣雄三氏や、あるいは昨年僕が日本に招聘したドルーズ研究者で本人もドルーズのカイス・フィッロ氏もこの映画について板垣氏と同様の指摘をしていたが、批判のポイントをもう少し明確にすると、以下のようになるかと思う。
 パレスチナ占領の問題、それから「ユダヤ人国家」の欺瞞の問題がかくも深刻ななかで、映画『シリアの花嫁』においてはイスラエルの「多様性」とか「人間性」が前面に出ていて、上記の諸問題を隠蔽することになる。しかも、シリア側の花婿一族や国境警備兵などは、典型的に不合理で滑稽な人物として描かれており、他方で、イスラエル側の内務省役人は職務の範囲内で最善を尽くす「人間」として、主人公の父親を逮捕しようとするイスラエルの警察官もギリギリのところで情をかける「人間」として描かれている。この非対称性はイスラエルを正当化する効果がある、と。
 以上、補足でした。

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