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2010.01.27

2010年1月1日、いやーな感じの西岸地区で

Posted by :早尾 貴紀

2010年1月1日

 今年は西岸地区のある村で年越しをして、2010年を迎えてしまいました。
 12月31日のガザ地区検問所での盛り上がらない集会を目撃してから、西岸入り。いま西岸地区を歩くと、あちこちに自治政府警察が路肩に車を停めて、ライフル銃をぶら下げて立っています。街の中を歩けば、ラーマッラーだけでなく、ヘブロンとかにまで、「アラファート&アッバース」の大きな写真や横断幕。

「アラファート&アッバース」の大きな写真や横断幕

 ちょうど1年前のいまの時期、ガザ地区がとんでもない攻撃に晒されていて、そしていまも封鎖されているわけです。イスラエルへの抗議は? ガザへの連帯は? ・・・西岸地区のなかでは皆無です。
 あるNGOメンバーに聞くと、「いま西岸地区でガザやハマースについて話題を出すことには、ものすごく慎重にならざるをえない。ファタハの自治政府(PA)に睨まれたくないから」、と。
 いや、ここまで来たら、ほとんど「タブー」でしょう。

 2006年のハマース政権発足から続くガザ地区の長期封鎖と、1年前の大規模な軍事攻撃は、ファタハのPAと西岸地区住民に対して、明白な政治メッセージとなりました。「今度ハマースを支持したら、ガザと同じ目に遭わせてやるよ」、と。
 ガザはずっと、西岸占領政策の実験場であり、また駆け引きの道具でした。ガザで導入されたIDカード、隔離壁は、あとで西岸にも導入されました。そして今度は、兵糧攻め。「言うことをきかないと、おとなしくしてないと、ガザみたいに干上がらせてやる」、というメッセージは、ファタハ、アッバースには響いたことでしょう(おとなしくしていても、「ガザと同じ目」に西岸はつねにあってますが)。

 こうしてすでにそもそも民衆的支持を失っていたPAのアッバース大統領は、イスラエル・アメリカとの協調によってのみ、その政治生命を維持し、またアラファートという過去の遺産にすがって、最後の権威づけをかろうじて保っています。寒々しい状況です。
 もちろんこれは、1993年のオスロ合意によって敷かれた路線の延長にあり、94年に発足した自治政府(PA)は、イスラエルとアメリカによって公然と支えられてきたわけですから。しかし、それは原理的におかしい、間違っているということは、2000年の第二次インティファーダによって、誰の目にも明らかになったはずです。
 それを受けて、イスラエルのシャロン政権は、明らかに政策を修正し、封鎖・切り離しを一段階強めました。2004年に提起され05年に実行されたガザの「一方的撤退」と呼ばれる戦略によって。
 しかしそれに対してPAは、ただただ90年代の和平路線に戻ろうとするばかりです。あの欺瞞と破綻が露呈したはずの「和平プロセス」に。すなわち、イスラエルとアメリカにすがるしかなかった。またイスラエルも、ガザを梃子にして、PAをそこへとさらに追い込みました。

 パレスチナのキリスト教徒のNGO「KAIROS」のあるメンバーに話を聞く機会がありました。「あえて極端な対比をすれば、この状況下で、アメリカ・イスラエルに支えられたファタハと、シリア・イランと結びついたハマースと、どちらに投票するのかと問われたら、キリスト教徒であるわれわれでさえ、ハマースを選ばざるをえない。ファタハに投票できるはずがない」、と。

 西岸地区は、どこの街も数年前と比べて、はるかに人出があり賑わっているようにも見えますし、イスラエル兵を見ることも減りました。しかし、いっそう占領による社会の崩壊は深まったようにしか感じられませんでした。
 重苦しい2010年の始まりです。

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