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2010.03.14

ベンヴェニスティ氏来日講演と「ラディカルさ」

Posted by :早尾 貴紀

 メロン・ベンヴェニスティ氏が来日し、東京での講演が始まった。
 その複雑で稀有な経歴のとおり、ものごとを単純化しない姿勢と、党派的政治運動へ利用されることへの拒絶と、机上のラディカルさだけを求める空論への戒めにおいて、彼はつねに慎重さと大胆さをもって、触発的な発言を続けている。

 ところが、前半の講演を終えて、「ベンヴェニスティさんは結局はユダヤ人があの地にいることを正当化しているだけじゃないの? その意味ではシオニストでしょ」、という感想を僕個人に差し向けてきた人がいた。どんな感想をもつのも自由だし、それを伝えてくれるのもありがたい。
 けれどもその人はそれだけでなく、どうやらつい最近、ユダヤ教超正統派がその宗教原理ゆえに反イスラエル国家思想をもっているということに感銘を受けたらしく、「こういう超正統派の議論のほうがよっぽどラディカルで紹介する意味がある。ベンヴェニスティなんて面白くないよ」と言い残していった。

 僕は端的に、この人の意見はただの短絡でかつ無意味だと思っている。何がどう短絡かということは、その人には面と向かって伝えたつもりだが、その方には理解していただけなかった。もし他にも同類の偏見が広まるのは好ましくないので、問題点を整理しておきたい。

  1. ユダヤ教超正統派が全般的に反イスラエルであるわけではなく、むしろ超正統派の圧倒的多数はシオニズムと共存している(イスラエルの連立政権にまで入ることもある)。このウェブサイトでも紹介したことのある ネトゥレイ・カルタ なども含めて、反シオニストの立場をとるのは、例外中の例外の異端であり、そうした現状をふまえない超正統派礼讃は無意味である。
  2. その人は、そうした(ごく一部の例外的)超正統派の主張にのっとり、「私はイスラエル国家の存在など認めない。ベンヴェニスティはその存在を前提としている」と言っていたが、口先で「自分は認めない」と言うのはタダである。何度でも空に向かって言っていればいい。ただし現実は何も変わらない。

 1について補足。反シオニストの超正統派の議論については、 ボヤーリン兄弟の『ディアスポラの力』(平凡社) を翻訳紹介したこともあるため、それに類似した思想を安易に持ち上げる契機を自分がつくってしまった責任もあるかもしれない。
 ただし僕は、それ以外にも歴史学的な観点から イラン・パペ を、政治経済学的な観点から サラ・ロイ を紹介してきた。これだけが核心だとばかりに「超正統派、超正統派」と礼讃したことはない。

 2について補足。「自分はイスラエル国家を認めない」とラディカルさ自慢をする人は少なくない。そういう人たちは、その声の大きさでラディカルさ競争をしていればいい。
 しかも、イスラエル/パレスチナから遠く離れた日本で、外から認める・認めないといった短絡した物差しで批判することなど、誰にでもできる簡単な話で、「短絡するな」と本人が何度も注意喚起をしているにもかかわらず、そんな感想しか出てこないというのは、いかにも幼稚な自己満足だ。

   *   *   *

 ベンヴェニスティ氏は間違いなく興味深い。論争的な人物であることは間違いない。
 「シオニストっぽいところがあって、私にはあまり面白くなかった」という感想を残していった人はほかにもいたが、他方で、この年齢(1934年生まれ)、この両親の経歴(第一世代の移民でシオニスト教育者)でありながら、誰におもねることなく、歯に衣着せぬ批判者として、いまなおイスラエル内の重要な発言者でありつづけていることに感心する声はたくさんあった。また講演での発言も、白黒と分かりやすいことを言うのではなく、またこうすればいいという解決案を煽るのではなく、つねに問題の所在の核心とその複雑さに対する「気づき」を与えるようなところに特徴があった。発言によってカタルシスを得るのではなく、居心地の悪さを覚えることのほうが多かったのではないか。
 実際イスラエル/パレスチナ内においても、アラブ・パレスチナ人であれユダヤ・イスラエル人であれ、シオニスト側であれ反シオニスト側であれ、非難するのであれ歓迎するのであれ、ベンヴェニスティ氏の発言は誰もが気にせざるをえなくなっている。薬にもなるが使い方を間違えれば毒にもなる。そういうポジションをもっている。
 逆に、「私はイスラエルを認めないので、ベンヴェニスティよりラディカルだ」なんて言っているのは、毒にも薬にもならないだろう。

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